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和歌山百年企業の表彰をいただきました

和歌山県百年企業

「和歌山県百年企業」

平成20年3月26日、和歌山県より和歌山県百年企業の表彰状をいただきました。
百年以上経っている企業であれば、頂けるものなのですが、やはり嬉しいものです。


「やまリ」ってなんだろう?


「木版チラシ」

明治末から大正初めにかけて作られた木版チラシです。
当時お茶の部門は玉林園、その他乾物、コーヒー等々ありまして、総じて「やまリ」と称されていました。


古い書き物(その1)

林有聲

「林有聲」

この書は玉林園とは直接関係は有りませんが、紀州藩主の中ではお茶とは切っても切れない存在の十代藩主「治寶公」の筆によるもので、治寶公は表千家九代家元了々斎より皆伝を受け十代吸江斎へと表千家のお茶を伝承しました。

葵の御紋の入った風袋・一文字はお庭織で治寶公より拝領したものです。

掛け軸


和歌山城と林家

「和歌山城と林家のちょっとした関わり」

廃藩置県が行われ、世の中が大きく変わった明治四年。
最後の和歌山城、城主は住み慣れた和歌山を後に東京へと旅立ちました。
その後、和歌山城は和歌山県庁に引き渡され、世話をする人も無く荒れ果てていました。
それをもったいなく感じた県庁は和歌山城の丸の内の建物を全て取り壊すという条件で、払い下げを行うことにしました。
そこで名乗りを上げたのが、旧藩士の「青石太兵」と「水野将監」、商人の「湯川三郎」の三人でした。
払い下げ金額は天守閣もつけて、当時の金額で7千3百円でした。
これは当時の金額では相当なものだったんですね。
三人はそれぞれ、和歌山条の丸の内を使って様々な商売を行おうという考えがあったようです。
ところが・・・、三人のうち旧藩士の「水野将監」が商売に失敗し、多額の借金を作ってしまいます。
その借金のための金策を手伝ったのが商人「林仁兵衛(当時の玉林園当主)」だったわけです。
それから間もなく、「水野将監」の和歌山城の持分は、同じように商売で失敗した「青石太兵」の持分と共に「林仁兵衛(当時の玉林園当主)」の手に移りました。
しかし、「林仁兵衛(当時の玉林園当主)」は、和歌山城の丸の内の権利を手に入れてホトホト困ったといいます。
というのが、最初の払い下げの条件に、建物の取り壊しという大仕事が付いていたからなんですね。
あの大きな和歌山城全てを取り壊すということは、一時にやると大変な金額が掛かります。
そこで、仕方なく手伝いを2,3人雇い入れて城の周囲の土塀をすこしずつ壊し、人目をつくろいながら2年ほどがんばっていました。
そうするうちに県庁から「都合により城を兵部省(後の陸軍省)へ無償で引き渡す」という思わぬ救いの神が飛び込んできたのです。
喜んだ「林仁兵衛(当時の玉林園当主)」は赤飯を炊いて祝ったといいますから、よほど嬉しかったのですね。

出典(昭和33年9月19日「朝日新聞」)



古い書き物(その2)

定菩提院様御忌日御茶事

「定菩提院様御忌日御茶事」

紀州藩家老 三浦長門守(後に華族)は
明治三十六年十一月十七日にお亡くなりになりました。

上の写真は、翌年一月十七日より月命日ごとに掛けられた追善の茶事の記録です。

その中で玉林園のお抹茶「桐壺」が使われています。
書いた方は三浦長門守の息子三浦 英太郎さんです。

つづく・・・・・・


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